「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」とは
幼少期に非常に優れていると思われていた子も、たいていは成長すると共に普通の人になってしまうこと。
という意味のことわざです。
本記事では、「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」という言葉の意味や類義語、使い方など徹底解説していきます。
それでは、みていきましょう!
読み方 | 十で神童十五で才子二十過ぎればただの人(とおでしんどうじゅうごでさいしはたちすぎればただのひと) |
---|---|
ローマ字 | toodeshinndoujyuugodesaishihatatisugirebatadanohito |
意味 | 幼少時代は並外れてすぐれているように見えても、多くは成長するにつれて平凡な人になってしまうことのたとえ。 |
使い方 | ・我が子を神童と思い込んでる人に対して:戒めの意味で ・かつて神童と称された人:自嘲の気持ちを込めて |
英文訳 |
・A man at five may be a fool at fifteen. ・Ten,child prodigy, fifteen,and a child prodigy, if you’re just a person. (十で神童十五で才子二十過ぎればただの人) |
類義語 |
・蛇は寸にして人を呑む(じゃはすんにしてひとをのむ) ・啄木鳥の子は卵から頷く(きつつきのこはたまごからうなずく) |
十で神童十五で才子二十過ぎればただの人とは
どうして、このことわざが使われるようになったのか?
早熟の人間が、少年時代に神童と呼ばれる場合が多くあるため
「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」のようなことわざが出来たと考えられます。
神童とは?
運動能力や学業成績などが、同年代の者に比べて現時点ですぐれている事を意味し、その者の能力が特別にすぐれているとは限らない。
能力がすぐれているというよりも、同年代の者よりも成熟が早いだけという場合がある。
才子とは?
才能や知恵に恵まれた人。
「意味」 ほとんどの人が大人になるにつれて平凡になっていく。
十で神童十五で才子二十過ぎればただの人とは
子供が示せば驚異的な能力でも、大人では一般的で平凡な能力である場合が多いことから、十歳でずば抜けた能力を示して神童と呼ばれた人も、十五歳ではややすぐれた才子と呼ばれ、二十歳を過ぎればただの凡人になるという、幼いときに特異だと言われていても、成長するにつれて平凡な普通の人になってしまう意味のことわざです。
「ことわざのイメージ」
- 自嘲(自分で自分をあざけること。)
- 親バカ
- 戒め
- 自惚れ
- 平凡
- 期待はずれ
「使い方」自嘲するとき
なるぞう爺さんが、「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」を使って会話していますね。みていきましょう!
[chat face=”naruzou.png” name=”ためになるぞう” align=”left” border=”blue” bg=”none” style=””]婆さんや、電卓あるかのぉ?[/chat]
[chat face=”obaasan_face.png” name=”ためになるこ” align=”right” border=”green” bg=”none” style=””]居間の引き出しの中ですよ。[/chat]
[chat face=”naruzou.png” name=”ためになるぞう” align=”left” border=”blue” bg=”none” style=””]わしの幼い頃は電卓なんぞなくとも、すべて暗算して「暗算のなるぞう」とまで呼ばれていたのに、十で神童十五で才子二十過ぎればただの人じゃな。今じゃこのとおりの凡人じゃ。[/chat]
[chat face=”obaasan_face.png” name=”ためになるこ” align=”right” border=”green” bg=”none” style=””]私も幼い頃は、ばくてんが得意で「ばくてんのなるこ」と呼ばれてましたっけ。[/chat]
このように、自分自身をあざける自虐的な会話で使うこともできます。
「例文」自分自身を戒めるとき
「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」とは、どんな状況で使用されるのか例文を参考に、みていきましょう。
「かの有名な偉人は、十で神童十五で才子二十過ぎればただの人というように、幼い頃はなんの取り柄もなかった子供だったそうだ。」
上記の場合は、大人になってからも才能のある偉人たちのことを言っているので、大人になるにつれて平凡になる意味の「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」は不適切になります。
「幼いころの身体の柔らかさはズバ抜けていた。十で神童十五で才子二十過ぎればただの人にならぬよう習い事のバレエは続けていくつもりだ。」
「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば並の人、といふこともあるから、子供の時に悧巧でも大人になつて馬鹿にならないとは限らない。だから神童と云はれるのも考へものだ」
参考文献:芥川龍之介『才一巧亦不二』
上記のように自惚れないように戒めの意味や、親の子供への過度の期待を自制させる時に使うこともできます。
「類義語」十で神童十五で才子二十過ぎればただの人
蛇は寸にして人を呑む(じゃはすんにしてひとをのむ)
優れている人物は、幼いときから常人とは違ったところがあるというたとえ。
由来:大蛇はわずか一寸(三センチメートル)ほどのときから、人間を呑みこもうとする気迫を持っていることが由来しています。
「彼女のピアノの才能は、蛇は寸にして人を呑むように、幼い頃から発揮され、多くの人に期待されていた。」
啄木鳥の子は卵から頷く(きつつきのこはたまごからうなずく)
生まれながらにして、将来を思わせる才能のあることのたとえ。
由来:首を振動させ餌をとるキツツキの様子を「頷く」と表現し、その習性は誰が教えるわけでもなく卵のときから自然にすることから、生まれながらの才能のことを表現しています。
「隣の家は息子の表彰状やメダルが、たくさん飾ってあるのよ。啄木鳥の子は卵から頷くような息子さんなのね。」
「英文」十で神童十五で才子二十過ぎればただの人
A man at five may be a fool at fifteen.(五歳で大人並みの子は十五歳では愚か者)
- man (成人)男性
- at five 五歳で
- may be ことによると、たぶん、もしかしたら
- fool 愚か者
- at fifteen 十五歳では
Ten,child prodigy, fifteen,and a child prodigy, if you’re over twenty, you’re just a person.(十で神童十五で才子二十過ぎればただの人)
- ten 十
- child 子供
- prodigy 非凡な人、天才 ※child prodigyで「神童」という意味になる。
- fifteen 十五の
- if もしも、ならば
- you’re you areの短縮形
- over 〜の上方に
- twenty 二十の
- just 正しい
- person 人間
just a personで「ただの人」という意味になるぞよ。
まとめ
いかがでしたか?
「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」とは、幼少期は並外れて優れているように見えても、そのほとんどは大人になるにつれて平凡な人になってしまうことのたとえとして使われることわざです。
自嘲するときや、子煩悩すぎる親などに使うこともできますが、
いつでも初心を忘れず、努力することを怠らないよう自分自身を励ましたい時に、このことわざを思い出せればいいですね!
十で神童十五で才子二十過ぎればただの人
・親の子供への過度の期待を自制させる時にも使われる。
・今の自分を自嘲する時にも使わる。
・たとえ神童と呼ばれても、自惚れず努力を怠るなという戒めの意味でもある。
・大人社会は世間一般の常識や嫉妬心のために、抜き出た才能を潰そうとする傾向にあることから、「ひときわ目立つ才能を潰すな」というメッセージ性のあることわざでもある。
コメント